あれはまだ私が父親と、奈良県奈良市で暮らしていたときのことです。ある日の夜中、父が「ラーメンを食べに行こう」と言い出しました。食いしん坊な父なのでそんなことを言い出すのはしょっちゅうで、私も「いいよ」と一つ返事で了承しました。ラーメン屋に向かって二人で歩いていると、大きな川に差し掛かりました。川を越えたらすぐにラーメン屋があります。ふと川に視線を落としたとき、私は息をのみました。水面を誰かが歩いているのです。暗くて性別は分かりませんでしたが、大人の人が水面を歩いていました。しかしそんなことはありえません。水の上を歩けるはずがないのです。思わず父の顔を見ると、父は私を見て言いました。「気付いたことを、気付かれてはいけない。見るな」と。私はその人を見ないようにして川を渡り切りました。父の腕が私の肩をぐっと抱きましたが、父は明るく言いました。「腹へったなあ、早く行こうな」。父の腕は痛いぐらいにしっかりと私を抱えました。「なに食べる?私、しょうゆラーメンにしよ」。私も父の明るさに合わせて答えました。通り過ぎた川を振り返ることは、決してしませんでした。もし振り返ったら、そのままつれていかれそうだったから。
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