16年かかった「日本の土木史でも屈指の難工事」
東海道本線はもともと御殿場を経由する山越えの経路をとっており、勾配のきつい区間で機関車の付け替えが必要でした。これを解消するため、丹那盆地の下を貫く長大トンネルの建設が決まります。1918年、工事が始まりました。
当初の見込みは7年でした。実際にかかったのは16年です。誤算の中心にあったのは水でした。丹那盆地の地下には大量の地下水が蓄えられており、掘進面から絶え間なく湧き出しました。抜いた水の量は膨大で、地上の丹那盆地では井戸や水田の水が枯れ、酪農への転換を余儀なくされたと伝えられています。
さらに破砕帯にぶつかると、掘ったばかりの坑道が押し潰されるように変形しました。落盤も繰り返し発生し、そのたびに工事は止まりました。67名という殉職者の数は、この十六年間の積み重ねです。
北伊豆地震——トンネルそのものが断ち切られた日
1930年11月26日、丹那断層を震源とする北伊豆地震が発生しました。マグニチュードは7.3、震源近くでは震度7に相当する揺れとなり、静岡・神奈川で250名を超える死者が出ています。
このとき工事中の坑内でも作業員が被災し、行方不明・死亡が生じました。そして地質学的に特筆されるのが、坑内に約2.4メートルの横ずれ変位が現れ、掘り進めていた排水坑がずれて断ち切られたことです。断層がトンネルを切ったこの記録は、地震の際に断層がどう動くかを示す物証として、現在も学術的に参照されています。
「断層に切られたトンネル」という事実は、それだけで強い印象を残します。丹那トンネルが怪談の文脈に取り込まれてきたのは、この出来事が語り継がれてきた結果でもあると編集部は見ています。
なぜ「心霊」と語られるのか
心霊の噂が集まる場所には、いくつかの型があります。丹那トンネルはそのうち「多数の犠牲者を出した土木構造物」という型に当てはまります。旧犬鳴トンネルのような廃隧道とは違い、ここは今も使われている現役の施設です。にもかかわらず名前が挙がるのは、67名という数字が独立して流通しているからです。
そしてもう一つ、鉄道トンネルには「入れない」という条件があります。実際に確かめられない場所は、想像で埋められます。列車で通過する数分間、外は完全な暗闇です。その暗さに、聞き知った数字が重ねられていきます。
編集部が確認した限り、坑内で怪異が起きたという記録は公的な資料には存在しません。語られているのは、あくまで史実から派生したイメージです。なぜトンネルという構造物にこれほど心霊の噂が集まるのかは、なぜトンネルに心霊の噂が集まるのかで類型を整理しています。
トンネルの「どこで出る」と語られるのか
丹那トンネルの怪異譚には、廃隧道の心霊スポットのような「特定の地点」がありません。現役の鉄道トンネルで坑内に立ち入れないため、噂は具体的な場所を持たず、「列車が通過するときに窓の外に人影が見えた」「トンネル内で急に車内が冷えた」といった、車窓からの体験談の形をとります。
これは物理的に説明のつく話でもあります。全長7.8キロを時速百キロ前後で抜ける約4分間、外は完全な暗闇で、窓ガラスは車内を映す鏡になります。乗客自身や車内灯の反射が「外にいる人影」として認識されやすい条件がそろっています。トンネルに入った瞬間の気圧変化で耳が詰まる感覚も、「空気が変わった」という印象に結びつきます。
熱海口・函南口の坑口周辺を「心霊スポット」として扱う情報もありますが、いずれも鉄道用地で立入は禁止されています。慰霊碑は工事の犠牲者を悼むために建てられたもので、肝試しの目的地ではありません。
慰霊碑を訪ねる場合
熱海側の坑口の上には、鉄道省が建立した殉職者慰霊碑があります。函南側の坑口付近にも、この工区で亡くなった36名を悼む碑が施工業者によって建てられています。いずれも工事の犠牲者を弔うために設けられたものです。
訪ねる場合は、鉄道用地への立入が禁止されていることを必ず守ってください。線路や坑口に近づく行為は極めて危険であり、鉄道営業法に触れます。碑は公道や見学可能な範囲から静かに参拝してください。
この場所を訪れる意味は、暗いトンネルを覗き込むことではありません。東海道の輸送を根本から変えた工事の裏に、67名の死があったことを知ることです。函南町は丹那断層の露頭を保存した公園も整備しており、地震と土木の歴史をあわせて学べる土地になっています。