日本三大怨霊とは誰を指すのか
日本三大怨霊として挙げられるのは、崇徳天皇・菅原道真・平将門の三人です。「日本三大○○」の多くは媒体ごとに顔ぶれが入れ替わりますが、怨霊に関してはこの三人でほぼ固定されています。心霊スポットの「三大」がサイトごとにバラバラなのとは対照的です。日本三大心霊スポットとは何かでも触れたとおり、公的機関が選定した事実はありません。それでも顔ぶれが揺れないのは、三人が単なる怪談の登場人物ではなく、歴史の記録に残る実在の人物だからです。
三人に共通するのは、いずれも当代一級の地位にありながら政争に敗れ、都から遠い地で、あるいは討たれて生涯を終えたことです。そして没後、都で天変地異や要人の急死が続き、当時の朝廷がそれを「祟り」と受け止め、神社を建てて祀った——ここまでが記録として残っています。怨霊と呼ばれたというより、国家が怨霊として扱った、と言うほうが実態に近いでしょう。
崇徳天皇|「日本国の大魔縁とならん」
崇徳天皇は第75代の天皇です。弟の後白河天皇との対立から1156年の保元の乱に敗れ、讃岐国(現在の香川県)へ配流されました。天皇経験者が流罪となるのは、奈良時代の淳仁天皇以来という異例の処遇でした。
讃岐での崇徳院は仏教に傾倒し、写経を都へ送って納経を願い出たと伝えられます。しかしこれを呪詛が込められていると疑われて送り返され、深く絶望したとされます。舌を噛み切った血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」と書きつけたという伝承は、『保元物語』などの軍記物語に描かれたものです。同時代の公的記録にそのまま載っている話ではなく、後世に語られた文学的な脚色を多分に含む点は押さえておく必要があります。
1164年、崇徳院は讃岐で崩御しました。その後、都では延焼を繰り返す大火、疫病、後白河法皇周辺の相次ぐ不幸が「崇徳院の祟り」と噂されます。朝廷は讃岐の墓所を「白峯陵」として整え、慰霊のための堂を設けました。明治維新の直前、1868年には明治天皇の命で京都に白峯神宮が創建され、崇徳天皇の神霊が讃岐から迎えられています。七百年後の新政権が改めて鎮魂を行ったという事実は、この怨霊譚がどれほど長く重く受け止められてきたかを示しています。
菅原道真|落雷と天神信仰
菅原道真は学者の家系に生まれ、宇多天皇に重用されて右大臣にまで昇りました。しかし901年、左大臣・藤原時平らの讒言により大宰府へ左遷され、903年、失意のうちに現地で没します。享年59でした。
道真の死後、都では異変が続きます。909年に藤原時平が39歳で急死し、道真の左遷に関わった人物が相次いで世を去りました。決定的だったのが930年の清涼殿落雷事件です。宮中の清涼殿に雷が落ち、公卿らに死傷者が出ました。醍醐天皇はこの直後に体調を崩し、まもなく譲位して崩御します。落雷と道真が結びつけられ、道真は雷神=天神として畏れられるようになりました。
朝廷は道真の官位を回復し、947年には京都に北野天満宮が創建されます。大宰府の墓所には太宰府天満宮が建てられました。注目すべきは、その後の変化です。雷を落とす祟り神だった道真は、やがて優れた学者であった生前の姿が前面に出るようになり、現在では学問の神として全国およそ一万二千社の天満宮に祀られています。怨霊が守護神へ転じた、もっとも成功した例と言えるでしょう。
平将門|討たれた首と、東国の英雄
平将門は平安時代中期に関東で勢力を築いた武将です。一族との争いから国司と対立し、やがて関東一円を制圧して「新皇」を名乗りました。しかし940年、藤原秀郷・平貞盛らに討たれ、その首は京へ運ばれて晒されます。
晒された首が夜ごと目を見開いて叫び、ついには関東を目指して飛び去った——という伝承から生まれたのが、東京・大手町の平将門の首塚です。関東大震災後の仮庁舎建設や戦後の整地工事にまつわる逸話が繰り返し語られ、日本でもっとも知られた「祟りの場所」になりました。
一方で将門は、朝廷への反逆者であると同時に、東国の民衆にとっては土地を守った英雄でもありました。神田明神(神田神社)に祀られ、江戸の総鎮守として長く信仰を集めてきたのは、そのためです。三人のなかで将門だけが「討たれた武将」であり、怨霊譚と英雄譚が同居している点が特徴的だと編集部は考えています。
なぜ怨霊は「神」として祀られたのか
三人の話を理解するうえで欠かせないのが、御霊信仰という考え方です。非業の死を遂げた人の霊が祟りをなすと考え、それを丁重に祀り上げることで、逆に災いを防ぐ守護の力に転じてもらう——という信仰です。恐れて遠ざけるのではなく、神として迎え入れて味方につけるという発想が、日本の怨霊観の核心にあります。
記録に残る早い例が、863年に京都・神泉苑で行われた御霊会です。疫病の流行を受け、政争に敗れて没した早良親王ら六名の霊を鎮めるために営まれました。菅原道真が没するより四十年も前に、すでに国家的な行事として怨霊を鎮める枠組みがあったわけです。三大怨霊が神社に祀られたのは、突飛な対応ではなく、当時の常識的な手続きだったと言えます。
この構図は現代の心霊譚にも受け継がれています。事故や災害の現場に慰霊碑が建てられ、手を合わせる場所が用意されるのは、形を変えた御霊信仰です。「呪い」という言葉の成り立ちについては呪いとは何かで、土地に紐づいた忌避の感覚については忌み地とは何かで、それぞれ整理しています。
三大怨霊はいま、どこで祀られているか
崇徳天皇は、京都市上京区の白峯神宮と、香川県坂出市の白峯陵・白峰寺で祀られています。白峯神宮は蹴鞠の宗家・飛鳥井家の邸宅跡に建てられた縁から、現在はスポーツ上達の神社として知られ、球技の選手や学生の参拝が絶えません。
菅原道真は、京都市上京区の北野天満宮と福岡県太宰府市の太宰府天満宮が二大聖地です。受験シーズンには全国の天満宮が参拝者で埋まります。祟り神としての性格は、現在の参拝風景からはほとんど感じ取れません。
平将門は、東京都千代田区大手町の将門塚と、同じ千代田区外神田の神田明神が中心です。将門塚は2021年に整備が完了し、ビル街のなかの開かれた参拝空間として維持されています。三カ所いずれも心霊スポットではなく供養と信仰の場であり、肝試し目的の来訪が想定された場所ではないことは、はっきり書いておきます。
「三大怨霊」という括りは誰が決めたのか
結論から書けば、公式な選定はありません。国や学術団体が「この三人を三大怨霊とする」と定めた記録は、編集部が確認した限り存在しません。近代以降の書籍やメディアで繰り返し三人が並べて紹介されるうちに、定説のように扱われるようになったものです。
それでも顔ぶれが揺れないのは、三人が「国家が公式に鎮魂の措置を取った」という共通点を持つからでしょう。個人の祟りとして語られただけの人物なら他にも数多くいますが、朝廷が神社を建て、官位を回復し、後世の政権までが慰霊を引き継いだ例となると、この三人に絞られます。
なお三人以外にも、早良親王(崇道天皇)、井上内親王、藤原広嗣といった人物が怨霊として語られ、実際に祀られています。「三大」に入らないから格が下がるという話ではなく、知名度と記録の豊富さで三人が代表格として選ばれている、というのが実態に近いと編集部は考えています。