将門の首塚とは何か
平安時代中期、関東で独立勢力を築いた平将門は940年に討たれ、その首は京で晒されました。首が関東を目指して飛び、現在の大手町の地に落ちたという伝承から、この地に塚が築かれたと伝えられています。
将門は朝廷に反旗を翻した人物である一方、関東の民衆にとっては土地を守った英雄でもありました。近隣の神田明神に祀られていることからも、この地に根づいた信仰の対象であったことが分かります。心霊スポットである以前に、まず「信仰の場」であるという点が重要です。
「祟り」が語られる理由
最もよく引かれるのは関東大震災後の話です。焼失跡地に大蔵省の仮庁舎を建てたところ関係者に不幸が続き、庁舎が取り壊されて塚が復されたと伝えられています。戦後の占領期にも整地工事が事故により中断したという逸話が残ります。
編集部として、これらの逸話が「祟りの証明」だと述べるつもりはありません。ただ、そう語り継がれるほどにこの塚が畏敬をもって扱われてきたこと自体が、この場所の本質を示していると考えます。周辺企業が長年にわたり清掃と管理を続けてきた事実も、その延長線上にあります。
現在の首塚
2021年に大規模な整備が完了し、以前より明るく開放的な空間になりました。ビルに囲まれた小さな敷地に、供養塔と石碑、そして絶えることのない献花とカエルの置物が並びます。カエルは「無事かえる」の語呂から、左遷除け・帰還祈願として供えられてきたものです。
日中は近隣で働く人が手を合わせていく姿が日常的に見られます。夜間に肝試し目的で訪れるような場所ではない、というのが実際に足を運んだ編集部の率直な印象でした。
訪れる際のマナー
柵の内側に入る、供養塔に触れる、腰を下ろす、飲食するといった行為は避けてください。撮影は他の参拝者が写り込まないよう配慮を。周辺はオフィス街のため、大人数での深夜の来訪は近隣の迷惑になります。
あわせて神田明神(神田神社)を訪れると、将門公がどのように祀られてきたのかがより立体的に理解できます。