HAUNTED SPOT REPORT 恐怖度ランキング 第163位

小塚原刑場跡

小塚原刑場跡とは|吉田松陰の墓・首切り地蔵・腑分けの歴史を整理

東京都 廃墟 恐怖度 ★★☆☆☆

ホーム 全国心霊スポットマップ 小塚原刑場跡

心霊.JAPAN 編集部 による調査レポート

荒川区南千住の延命寺と回向院の一帯は、江戸の北の入口に置かれた刑場の跡です。怖い場所として語られることがありますが、近代日本の歴史に深く関わる場所でもあります。

基本データ

所在地 東京都荒川区南千住2丁目(延命寺・小塚原回向院周辺)
開設 慶安4年(1651年)
処刑者数 廃止までに20万人以上が死刑になったとされる
首切り地蔵 寛保元年(1741年)建立、高さ約3メートル。区の指定文化財
墓所 小塚原回向院に、吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎らが一時埋葬された。松陰・左内の墓は区登録
腑分け 1771年、杉田玄白らが刑死者の解剖に立ち会った

結論:江戸の北の入口の刑場であり、日本の近代医学の出発点でもある

小塚原刑場は、日光街道沿いに設けられた刑場で、東海道沿いの鈴ヶ森刑場と対になる存在でした。

恐怖の対象として語られがちですが、ここでの出来事は、幕末の政治史と医学史の両方に深く関わっています。

回向院の成り立ちと墓所

刑場に隣接して、死者の埋葬と供養のために常行堂が創建され、これが後の南千住の回向院になりました。

安政の大獄で処刑された橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎らも、ここに一時埋葬されました。現在、吉田松陰と橋本左内の墓は区の登録を受けています。

首切り地蔵

寛保元年(1741年)に建てられた首切り地蔵は、高さ約3メートルで、区の指定文化財です。供養のために建てられた地蔵であり、「怖い像」ではなく、亡くなった人々を弔うための像です。

腑分け(解剖)と『解体新書』

明和8年(1771年)、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』を手に入れた杉田玄白、中川淳庵、前野良沢らは、書物の図が正確かを確かめるため、小塚原刑場で刑死者の解剖に立ち会いました。

この経験が、後の『解体新書』の翻訳につながったと広く知られています。心霊の噂よりも、この歴史の方が、この場所の本質を表しているといえます。

現地は寺の境内です。見学は日中に静かに行い、夜間の肝試しは避けてください。

場所

東京都荒川区南千住2丁目(延命寺・回向院周辺)(地図はおおよその位置を示しています)

訪問前に必ずお読みください

よくある質問

小塚原刑場跡はどこにありますか?

東京都荒川区南千住2丁目、延命寺と小塚原回向院の周辺です。

いつからあった刑場ですか?

慶安4年(1651年)に設けられたとされます。

首切り地蔵とは何ですか?

寛保元年(1741年)に建てられた高さ約3メートルの供養のための地蔵で、区の指定文化財です。

吉田松陰の墓はありますか?

小塚原回向院に、吉田松陰の墓があります(区登録)。橋本左内の墓も同様です。

杉田玄白との関係は?

1771年に、杉田玄白らが刑場で刑死者の解剖に立ち会い、『ターヘル・アナトミア』の図の正確さを確かめました。

小塚原刑場跡で、何かを見ましたか。

あなたの体験談・写真を匿名で投稿できます。編集部が次の調査の手がかりにします。